第二十九号 小春日和
私は小学生を卒業するまで『台風一過』のことを『台風一家』と、思い込んでいました。台風が過ぎ去った翌朝「今朝は台風一過だね」と母が言うと、子供の私の心には、頭に一本角のある、台風の大家族が笑っていました。とてもおかしな間違えですね。『台風一過』と気づいたのは、中学生になってからなのですから、ちょっぴり間抜けな話ですね。笑ってください。
皆さんは、そんな思い違いはありませんか。
私の友達は『ふるさと』と言う唱歌の♪ウサギ追いし♪を♪ウサギ美味し♪と思っていたと言って笑っていました。
それから、小春日和という言葉は、冬全般に使う言葉だと思っている人もいるのではないでしょうか?実は私もそう思っていた一人です。正しくは、小春日和は晩秋から初冬にかけて使う言葉だということです。
太陽暦では、凡そ10月下旬から12月中旬頃の穏やかな日を指すようです。
最初の詩は、そんな小春日和の日に、ストレスで凝り固まった心を温かな陽だまりが溶かしてくれる様子を書いてみました。
どうぞ読んでください。

〈陽だまりの中に〉

verandaで大きく伸びをした
その刹那
まるで薄氷のような
鋭く冷たい空気が
頬を包む
近くの庭にできた
陽だまりは
オアシスを作り出し
今春起きた震災が
小説のワンシーンに思えてきた
また私の心には
ひとつの歴史が刻まれ
朝(あした)には
新しい時間が流れる
こうして想い出という歴史が
地層のように重なり合って
心の中に
重く深く圧し掛かる
その地層からは
色とりどりな花が咲く
歴史から学んだ
教訓を肥料にして
・・・・
私の心には
明と暗が混在する
その明という
陽だまりにも
多くの花が咲き
未来への
先達を務めてくれる
365日の
歩みには
笑顔もあれば
涙もある
汗することもあり
傷つくこともある
頬を流れた
一粒の涙が
胸いっぱいに溢れ
心が光に
満たされることもある
・・・・
冷たい風に
身をまかせて
大地に寝転べば
悲喜こもごもな想い出が
地層深くから
隆起して
胸をノックする
その刹那
心臓が震えだし
太鼓へと変わる
いつの間にか太陽が
西の空へ傾いたころ
澄み渡る空の青さが
目にしみて
瞼が弛緩する
心に陽だまりを残して

▽私は目を失くしてから、思考を巡らせる時間が多くなりました。それは、過去の思い出だったり、自らの行いを見直して見たり、広大な宇宙の起源だったりと、途方もなく種々雑多なことばかりです。
話は変わりますが、私の母は、運転免許は持っていませんでした。それで、出かける時にはいつも隣に父がいました。時々母は言いました。
「眞人たちが、人から道を譲ってもらえるようにと思って、ほかの車に道を譲っているのだよ」と…
そんなことをよく聞かされていたので、自然に私も、同じことをしていました。それは、無駄なのかもしれませんし、気休めなのかもしれませんね。
次の作品は、恥ずかしながらそんな私の気持ちを詩にしたものです。
どうぞ御笑覧ください。

〈笑顔〉

大好きなあなたが
今日も幸せでありますようにと
願いながら
この人に笑顔を向けています
・・・・
大好きなあなたが
苦しみから解放されますようにと
願いながら
その人に優しさを向けています
・・・・
大好きなあなたが
今日も元気でいられますようにと
願いながら
あの人にマッサージをしています
・・・・
遠く離れた大好きなあなたと
いつかまた会えますようにと
願いながら
すべての人達に
思いやりを持って接する努力を続けています

▽ 改めてこの詩を読むと、気短な私にも、こんなにも殊勝な気持ちを持ち合わせていたのかと感心したりもします。
私はよく、自分の気持ちを表現するときに「人の心は決して平面的ではなく、心は球形をしているように思います」と言っています。
多くの人の心を観察すると、ある人は三角、ある人は四角、またある人は、とげとげしてゆがんだ形をしていたりするものですね。私は、心の理想形は球形だと思っています。
自分の心を観察すると、決して球形ではなく、ある部分は丸で、ある部分はとげがあり、ある部分には角があるように感じます。
その心の角々は、対人関係という名の川を流れ、他人の硬い石(意思)とぶつかり合ってやがて角が丸くなるのではないかと想像しています。
自身の心は、人生終焉の時までに、どれくらい球形に近づけるか楽しみです。
またまた自身の恥ずかしい思い込みを書いてしまいました。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
石田眞人でした