第三十四号 春を待ちわびて
皆さんは、子供と大人の境界を考えたことはありますか。単純に、ある年齢を超えると大人になると考えれば、わかりやすいですね。
今年の4月から、成人年齢が引き下げられることは、周知のことですが、ここで大人と子供の境界を考えてみたいと思います。
私が読んだある本には『やりたいことを優先するのが子供で、やるべきことを優先するのが大人である』と書いてありました。何歳の時に読んだ本だったのかは、定かではありませんが、根が単純にできている私は、その時の自分を恥じ、反省しました。
そのほかにも、大人と子供の境界線は、色々と考えられるのではないでしょうか。例えば『親の保護下にあり、自らの言動の責任を自分自身で負いきれないうちは子供で、自らの言動すべての責任を自分自身でとれるようになった時から大人』と考えることもできるのではないでしょうか。昨今、自分の失敗を部下や同僚に押し付ける人もいると聞いています。私は、一生かけても、完全な大人になりたいと思います。
初めの詩は、寒さが苦手な私が、春を待ちわびる気持ちを書きました。力の強い冬と、温かさを運ぶ春との鬩ぎ合い(せめぎあい)を楽しんでください。きっと、その季節ごとに喜びを感じられるようになれたなら、立派な風流人になれるのでしょうね。どうぞ読んでください。

〈名ありて姿なき季節〉

凍りついた空気は
ちょっぴり
ほんのちょっぴり
小指の尖端くらいではあるが
ちょっぴり解け始めた
その刹那僕は
玉響な春を見る
すると
悪戯好きな北風たちは
枯葉を巻いてやって来て
冬はまだ続くと言わんばかりに
全身にまとわりつき
「まだまだ俺たちの季節だぜ」と
喧々囂々と主張する
僕はそのたびに
肩をすぼめ
首や腰に絡む
冷たさに辟易しながらも
陽だまりの優しさに
春を観る
・・・・
太陽は早起きになり
「さあ 朝が来るよ」と
寝ぼけ眼な僕に
光を差し伸べる
その光の柔らかさに
へそ曲りなからっ風も
時たま足を止め
その温もりに
心を優しくする
そんな時僕は
大地の息吹を
全身で受け止める
・・・・
凍りついた空気も
ちょっぴり
ほんのちょっぴり
小指の尖端くらいではあるが
ちょっぴり解け始めた
その刹那僕は
玉響な 春を見る
名ばかりで
姿の無い春が
いつの間にか
微笑みを見せ始める
すると
山を眠らせている
深く眞白な雪も
命の芽生えに
力を与える
降り積もった雪と
冬から目覚めた
大地の狭間には
小さな小さなふきのとう
その小さな小さな命から
生命の力強さを見る
・・・・
名ありて姿なき季節が
全身を震わせ
がぶり寄り
冬をうっちゃる
すると
春の訪れを知る
それからそこに
何億年も続く
宇宙の
ミクロサイクルを見る
凍りついた空気も
ちょっぴり
ほんのちょっぴり
小指の尖端くらいではあるが
ちょっぴり解け始めた
その刹那僕は
玉響な春に抱かれて
大きく伸びをする

▽私は、岩手の奥州市(旧胆沢郡衣川村)に20年以上住んでいました。その頃知ったのですが、北国では、フキノトウは積もった雪の下から芽を出し大きくなるのだそうです。フキノトウが雪の下に顔を出すと、フキノトウのパワーで雪は解け、フキノトウの周囲は、まるでかまくらのように、空間ができるのです。
初めてそんな様子をテレビで見てから、その力強いフキノトウのファンになりました。
そして、心の中で、フキノトウが雪に負けずに芽生える様子を思うと、そこはかとなく元気になるのです。
ちなみに、岩手では、フキノトウのことを『バッケ』と言っています。フキノトウを味噌と一緒に炒めた『バッケ味噌』は、味噌の奥深い風味とフキノトウのほろ苦さが絶品です。
北国に住む人たちは、冬の厳しさを力に変えて、強く生きる様子はとても素敵ですね。

次の詩は。そんな北国に住む人たちの、春を待ちわびる気持ちを書いてみました。
どうぞ読んでください。

〈鶯の唄〉

鶯は春を唄う
その清らかな唄声に
菜の花は匂い立ち
心は浮き立つ
・・・・
鶯は春を唄う
その穏やかな唄声に
梅はほころび
笑顔が花開く
・・・・
鶯は愛を唄う
その凛とした唄声は
春一番を呼び
新たな命が動き出す

▽ 私は、春一番に鶯の声を聞くと、心がわくわくしてきます。
春先の鶯は、ぎこちない鳴き方ですが、私は、ただ若い鶯だからかと思っていました。実はそうではなく、春先の鶯はベテラン鶯でも鳴き声はぎこちないものなのだそうです。
皆さんはご存じでしたか。
今回も、お付き合いくださり、ありがとうございました。
石田眞人でした