第八号 育て方と育ち方
国リハ(コクリハ:国立障害者リハビリテーションセンター)で学んでいた頃には、多くの楽しい出来事と、ほんのちょっぴりの楽しくない出来事がありました。そうして、そんな出来事と新しい出会いからは、沢山のことを教わりました。
これは、私が二年生になった年に、一年に入学してきた全く生き方の違う二人の女性の話です。便宜上、イケてる女性をE子さん、そうでもない女性をD子さんと呼ぶことにします。E子さんは二十代後半で、頭脳明晰、容姿端麗で何でも一人でこなしてしまう女性でした。D子さんは二十代全般で、頭脳ぼんやり、容姿でっぷりでひとりでは何もできない女性でした。え!今なぜ容姿がわかるのか?と言いましたか。それは私には、目の代わりをして情報を集めてくれる密偵が国リハにいたのです。
話を戻しますが、そのころ私は国リハの生徒会の副会長と寮長を兼ねていました。そのため、寮生から様々な要望や不満を聞いて、それを国リハ側と交渉することも私の役目の一つでした。それで、寮生とは話す機会が多くありました。そんなこともあり、E子さんやD子さんとも色んな話をしました。
ふたりの共通点は、二十代の女性であること、先天的な障害であること、光も感じられない・所謂全盲だということです。相違点は、ご両親の育て方でした。
E子さんは、お母さんからとても厳しく育てられたそうです。お母さんの教育方針は、障害のない子と同じに育てることだったのです。
当然、見えないことで、難しいこともたくさんありますが、お母さんの求める基準まで到達できないと、厳しく躾けられたそうです。甘えたことを言ったりすると、定規でお尻を叩かれたり、モノを投げつけられたことすらあると言っていました。そんな中、お父さんは優しく接してくれ、大きな手で守ってくれたそうです。小中学は盲学校を卒業し、高校と大学は健常者と一緒に学んだのでした。もちろん、入学試験も資料も教科書も皆と同じもの、同じ内容のものを使い皆と同じテストも受けたのでした。学校側の配慮としては、すべて点字のものを用意してくれたようでした。大学卒業後は一般の会社に入り数年間働いたのですが、一生できる仕事を求めて、国リハで「鍼師、灸師、あんまマッサージ指圧し」の資格を取るために入学したのでした。
一方、D子さんは、両親や家族から甘やかされて育ったのでした。お父さんは「貴方は見えないのだから 何もしなくていいのだよ」と、言っていたようです。次のことは本人の言なので本当のところはわかりませんが、こんなことも言われたそうです。「挨拶も貴方から先にしなくていいよ」と、です。私にとっては、驚天動地な話でした。そのためか、D子さんは挨拶どころか、「ありがとう」も「ごめんなさい」も言えないのです。まるで、小学校の低学年生と接しているようでした。もしかしてきちんと躾けられないと、心も精神も成長出来ないのかもしれませんね。D子さんは小中高と盲学校で学び、あんまマッサージ指圧師の国試も受けたのですが、見事に不合格…それでもう一度国試に合格するために、国リハに入学したのでした。
そんなふたりとの出会いから考えたのは、ある日のテレビニュースでした。
それは、大量殺人のニュースです。なんと、その犯人の動機は「人を殺してみたかった」という、自分の耳を疑いたくなるような信じ難いものでした。そのニュースを、あるテレビ番組で、取り上げているコーナーを偶然見たのですが、その犯人も、子供のころから母親に甘やかされて育ったようです。それどころか、その人殺しになってしまった息子をことあるごとに庇い、子供に責任があってもお前には何の責任もないとばかりにすべての責任を他人に転嫁したのだそうです。
甘やかすにも、限度がありますね。この母親は「保護と過保護」の境界線を、引き違えているようですね。
こんなニュースに接すると、親の育て方で、子供の人生だけでなく、人の人生さえも左右してしまうことを、恐ろしく感じた次第です。
それで、初めの作品は、自由と自分勝手の違いを、つくづく考えてみた詩です。そんな見方もあるのか?!と、思っていただけたなら幸いです。

<天国と地獄>

自由と言う響きには
甘く香る 柔和さがあり
一見すると
自由と自分勝手は似ている
それ故に 自分勝手を
自由とすり替えたくなる
言論の自由と 勝手な言論
表現の自由と 勝手な表現
思想の自由と 勝手な考え
行動の自由と 勝手な行い
「僕の自由でしょう」を翻訳すれば
「僕の勝手でしょう」になる
・・・・
ある日ニュースで
人を殺してみたかったと
勝手極まることを言い
大勢の人を殺傷した
若い犯人をテレビで放送していた
簡単に 命を奪ってしまう世の中だからこそ
今考えてみる・・・
自由と自分勝手
それは
何を基準に分けるのか
人の命は
広大な宇宙の中でさえも
たった一つしか無い存在だ
それだけではない
希望にあふれる子供たちには
未来と言う名の
人生経験を重ねた大人には
過去と言う名の
可能性と財産を持っている
その大きさ・・・
その尊さ・・・
それは掛け替えのない 宝物
・・・・
自由を求める心は 良心からの発露
自由それは胸を満たす希望
自由それは澄み渡った広い空
自由それには責任が伴う
自由それには思いやりの心が不可欠
自由と自分勝手は 明と暗
自由とは 太陽が暮れる安心
自由とは 月と星が齎す 安らぎ
自由とは 季節を彩る花の優しさ
自由それは 神様からの贈り物
自由と言う響きには
甘く香る 柔和さがある
それ故に 自分勝手を
自由とすり替えたくなる
・・・・
自分勝手の起源は
自身の心に潜むエゴイズム
自分勝手とは 無責任なもうひとりの自分
自分勝手とは 醜さを隠す暗室
自分勝手とは 心を酔わす危険な薬
自分勝手とは 鼻を抓みたくなるほどの悪臭
自分勝手とは 安らぎを奪う盗人
自分勝手な行動は
やがて自分で自分の首を絞めることになる
自分勝手それは 悪魔が仕掛けた深くて暗い落とし穴
そこに落ち込んでしまうと
もがいてももがいても抜け出すことはできない
また光を求めて もがいてみるが
もがけばもがくほど
蟻地獄に落ちて行く
そして何時しか
心の目が曇り
心の耳がふさがれ
もがくことすらやめてしまう
それが恐ろしい

▽私も、自由を満喫したいと考えますが、自分の言動には責任を持ち、思いやりも忘れないようにしたいと思います。
そんな私も、その昔蟻地獄に落ち込んだ経験を持つ一人です。その時には、蜘蛛の糸に助けられました。
話は変わりますが、ずっと以前のことですが、健康の三原則の話を聞きました。それは「バランスのとれた食事・良質な睡眠・軽い運動」です。それにもう一つ加えると「良い水を使う」ことだそうです。この話を聞いたころは、まだ若かったこともあり、全く心に残りませんでした。
しかし、年を重ねるに従い健康を考えるようになり、障害を持ってからは特に意識しています。この三つの中で、おろそかにしやすいのは、運動ではないでしょうか?「軽い運動」というのは、有酸素運動、平たく言えば、ウオーキングがよいそうです。あくまでも「散歩や散策」ではありません。その違いはと言うと、歩く速度と歩幅にあります。
あえてウオーキングと言ったのは、意識して大股で速度を速めて歩くことで、健康増進につながるのです。そして、手は前に振るのではなく後ろに大きく振ると、足がスムースに前に出るようです。
もう一つ加えると、ダイエットを目的にするならば、歩くときには、大股で早足。ジョギングの場合は、小股でゆっくりと走るのが良いと言うことでした。
以上は、日体大を出た先生からの受け売りでした。
ちなみに、私の場合は、時速4㎞くらいの速度で歩いています。
ここで、一つ自慢話を聞いてください。私は、国リハ二年生の時に、東京マラソンの10kmの部に参加して、完走し完走記念の金メダルをいただきました。それはとても楽しい経験でした。
話を戻しますが、サプリをたくさん飲むことで、健康増進につなげようとしている人がいますが、上手に使えばとても良いことだと聞いています。しかし、頼りすぎはご法度だそうです。そんな人に限って、運動を嫌っているのではないでしょうか?
そこで、次の詩は、どこにでもいそうな健康オタクな男性を皮肉ってみました。掛け合い漫才を思い浮かべて読んでください。

<若さを自慢にする男>

俺様は 今年 60の還暦を迎える
しかし いつでもいつだって
若いねと言われる
・・・・
皮膚年齢は 50代
よっ! もち肌すべすべ
血管年齢は 40代
よっ! 健康そのもの
筋肉年齢は 30代
よっ! まだまだ現役 マッスル男
骨年齢は 20代
よっ! 白くてすべすべ女泣かせの骨男
・・・・
そうして 精神年齢は 10代
やっやっや 子供かよ
更に 知的年齢は 5歳
ジャジャじゃ 掛け算もできねぇのかよ

※ジャジャじゃとは:岩手では、驚いた時に使われている表現です。

▽楽しんでいただけたでしょうか。
「健康の為なら死んでも良い」という人も時々見られますよね。
死ぬまで現役で過ごすためには、お医者さんと上手に付き合うことも大切ですね。そして、私のような、マッサージ師を利用するのも一つの手だと思います。なんてね!!
意外なことに、自分の姿や健康については客観的にはわかりにくいものですよね。それを四文字熟語にすると『岡目八目(オカメハチモク)』というそうです。自身では、良いと思うことも、他人から見れば滑稽に見えることも多いものです。
私自身、おかしな行動をとっていることもあるのではないかと思っています。見えない特権を行使して、一つのキーワードから、こんなことを想像して楽しんでいる私です。
ありがとうございました。

※岡目八目とは:囲碁の対局では、対局している本人にはわからなくても、観戦している人には八手先まで見えると言われていることから、当の本人にはわからないことも他人にはよく見えるという意味。
石田眞人でした