残暑お見舞い申し上げます。

梅雨が明けたかと思えば、今までの分を取り返すような酷暑。しかし、暦の上では秋が始まりました。

これまで、トピックスでは施設での行事についてお知らせしてきまた。しかし、コロナ禍の中では外出もままならず、行事を実施することがとても難しい状況です。

そこで、というわけではないのですが、通所で利用して下さっている利用者の方が、今までに書き溜めた詩の、発表の場を求めていることを知り、このトピックスの欄で発表してみるのはどうか?と相談をしたところ、快諾して下さいました。

今回だけということではなく、継続的にトピックスの欄で作品を発表していただくことになりました。障害を負ったことや家族に対する思いなど、心の変遷がつづられています。今まさに、視覚障害という現実に苦しんでいる方やそのご家族、関係者の方たちへの一助となればと思います。

以下、作品です。ぜひ、ご鑑賞くださいませ。

皆さんは障害とは何か?、障害を持つとはどういうことか?考えたことはありますか。
私は、人生の途中で視覚に障害を持ち、それから10年近くたった今になって、ようやく障害についてを考える余裕が生まれました。
今現在の私にとっては、障害とは、特別なことではなく私自身の一部だと考えられるようになりました。視覚障害者になったころは、出来なくなったことばかりを数え、もう生きては行けないとまで考えたりしました。しかし、あることをきっかけに、見えなくても出来ることはあると考えられるようになり、一つでもできることを増やしたいと思えるようになりました。今では、障害を持っていることは、恥ずかしいことでも、ましては可哀そうなことでもないと考えられるようになりました。
そんな体験を、皆さんにも聞いてほしいと思います。無聊(ぶりょう)を慰めることくらいは、できるのではないかと思います。
それでは、皆さんと一緒に、随時障害について考えて見たいと思います。ぜひ一緒に考えていただけたなら幸いです。
そんなことで、この回から、二編づつの詩を投稿させていただきます。
今回の詩は、私が、人生途中で失明して、特に家族、その中でも母と妻に心配をかけてしまい、そのことも私の悩みの一つでしたが、そのことを詩にすることで、自分自身の気持ちに区切りをつけようと、思い書いてみたものです。
最初の詩は、妻に感謝の気持ちを込めて書きました。この詩の全編は、出来なくなったことを数えていたころのことを書き、後編は、前向
きになれてからのことを書きました。
次の詩は、母の気持ちを斟酌して、母に捧げるつもりで書いてみました。
ぜひ読んでみてください。宜しくお願いします。

〈目を失くして〉

目を失くして
春に薫る 梅の花も
青空を彩る 満開の桜も
見ることができなくなった
目を失くして
心洗う 新緑の森も
マリンブルーな 真夏の海も
見ることができなくなった
目を失くして
黄金に敷き詰められた たわわな稲穂も
赤や黄色に化粧された 渓谷も
見ることができなくなった
目を失くして
雪に戯れる 子供たちの笑顔も
膝にまるくなる 子猫の寝姿も
見ることができなくなった

目を失くして
一期一会の 優しさも
友が秘めてる 親切も
見えるようになった
目を失くして
町や国や家族から
守られ助けられていることが
見えるようになった
目を失くして
さんざめく真昼の街角も 月を震わす虫の音も
人を励ましてくれていることが
見えるようになった
目をなくして
妻が「私が目になってあげる」
と言ってくれた
街に出ると
沢山の人がわたしの目の代わりをしてくれた
それから それから
本当に大切なことが見え始めた

星の王子さまは言いました
「本当に大切なものは目には見えないのだよ
心の目で見なくちゃね」

▽私の母は、大柄で男勝りなところがあり、男性的な人でした。私にとっては、母という存在は強いのが当たり前でしたが、今思えば、上州女性の気質がそのまま出て、所謂”かかあ天下”そのままの母でした。子供の頃の私にとって、母はまるで頼りになるスーパーマンのようでした。その母の涙を始めてみたのが、私が小学二年の頃、一番下の弟が心臓病で亡くなった時でした。そんなことも含んで読んでください。

〈俺の母ちゃん〉

『元気でいろよ』と言いたいが
もう八十も過ぎると
膝が痛い とか
買い物へ行くのが億劫だ とか
明日は病院へ行く日だ とか
言っているのが聞こえてくる
だから言い方を変えよう
「もう少し生きていろよ」
「俺が国試に受かるまでは死ぬなよ」
なんて言うと
「百歳になるまでは死なないよ」と
いつも答える母ちゃんである

曾お祖母ちゃんの
下の世話をして
自分の三男(ムスコ)を
心臓病で亡くし
癌で苦しむお祖母ちゃんに付き添い
脳卒中でボケてしまった
お祖父ちゃんを看護し
父ちゃんに寄り添って
最後の最後に看取り
今では五十を間近にして失明した
長男(オレ)の心配をしている

そんなに苦労をしてきた母ちゃんだからこそ
長生きしろよ
人の世話ばかりの人生だった母ちゃんだから
『俺が孝行できるようになるまでは死ぬなよ』
なんて言いたいが
上手く言えない自分がいる

今も胸に秘めているのは
『元気でいろよ』ということ
しかし もう八十も過ぎると
膝が痛い とか
買い物へ行くのが億劫だ とか
明日は病院へ行く日だ とか
言っているのが聞こえてくる
だから言い方を変えよう
「もう少し生きていろよ」
「俺が国試に受かるまでは死ぬなよ」
なんて言うと
「百歳になるまでは死なないよ」と
いつも答える母ちゃんである

そして それを聞くと
ほっとして
キュンとなって
安堵する俺なのである

※国試=国家試験
この場合、鍼師・灸師・あんまマッサージ指圧師の三つの資格を指します。

▽私自身視覚に障害を持つまでは、障がいのことや障害を持っている人たちそして、そのご家族様のことなど、全く考えたことはありませんでした。
しかし、私自身が50歳を間近にして、視覚障害者になってから、今年61歳になるまでに、たくさんの種類の障害を持つ人たちや、そのご家族様方の存在を知るにつけ、それらの人たちの、生活などの様々なことに、ご苦労されているのではないかと自らと重ね合わせて、関心を持つようになりました。
目が見えないこともあり、目に障害を持つ前と違い、いろいろなことを考えるようになったためかもしれませんが、私自身の過去の思い出や、これから起こるであろうことなど常に考えています。
そんなことを考えてもしようがないのにと思ったりしますが、ストレス解消のためもあり、書き溜めた詩が、300にもなりました。熊谷のベーチェット協会の方に話したところ、その方のご厚意により、ホームページに、私の詩を載せていただけることになりました。
今後、宜しくお願いします。

◎最後に、自己紹介をさせてもらいます。
ペンめーむ 石田眞人(イシダマサト)
群馬県の子持村(現渋川市)で高校卒業まで過ごし、現在は埼玉県行田市在住
昭和34年2月10日生まれ
47歳ころから視力が衰え、51歳の時に障碍者手帳を交付される。
鍼灸マッサージ師  61歳