第四十七号 私の心象風景
皆さんも一度くらいは登山の経験があるのではないでしょうか。では、富士山の山頂まで登ったことはありますか。多分そんな方も大勢いらっしゃるのではないかと思います。残念ながら、私は五合目までバスで行った経験しかありません。
なぜ突然登山の話をしたかと言えば、この世界に存在するすべてのものは、始めがあれば終わりもある…スタートラインがあればゴールラインもあり、生きとし生けるものはやがて死が待っている…ということを言いたかったのです。
ところがです…
目の見えない私は次のようなことを想ったのです。『今でも宇宙は広がり続けて、その終わりを測定できないように、私たちの心も始めも終わりを測れないのではないか』とです。
もう少し高所に身を置いて覗いてみると、心の中には障害物が沢山あることにも気づきました。
それをよくよく見てみると、総ての障害物は『私が(我)俺が(我)』の『俺さえよければ良いと言う「我(が)」…自己中心の気持ち』だと言うことに気づいたのです。その「我(が)」という障害物を取り除いた時に、心の中の隔たりも失くなり、終わりのない宇宙のような広い心になることが可能ではないかと思うのです。
以上のことは、自我の強い私の勝手な思い込みなので、どうか聞き流してくださいませ!しかし、そうだとしたら意外に楽しいと思いませんか。
始めの詩は、私の心の中を書いてみたものです。御笑覧ください。

〈心象風景〉

見上げれば
風は流れて
陽は落ちて
西には
ぽっかり茜雲
心も染めて
流れ行く
・・・・
漆黒の
夜空に光る
流星群
闇に一筋
尾を引いて
夏の想い出
永遠に
・・・・
気が付けば
虫の音響き
上弦の月
夏の終わりに
身を置けば
子供の頃に
馳せ戻る

▽ 皆さんは、何かに追いかけられる夢を見たことはありますか。またその反対に、何かを追いかける夢を見たことはありませんか。
これは、私が見えなくなりかけた頃(46、7歳の頃)の夢ですが、沢山の蛇に追いかけられる夢を頻繁に見ました。夢の中の私は、なぜか右手には大根を、左手にはゴボウをもって、飛び掛かってくる蛇を、手に持った大根とゴボウでなぎ倒しながら逃げる夢でした。一度も蛇に、噛みつかれたことも、追いつかれたこともありませんでしたが、とても気持ちの悪い夢でした。
しかし、不思議なのですが、見えなくなったことを受け入れ始めてから、そんな夢は変化を始めたのです。
変化の始まりは、障害者手帳を貰おうと決めた頃です。それは、私ひとりでは抱えきれないほど太い胴回りを持ち、10mも在ろうかと思うほど長く、みごとなほど金色をした可愛い目の蛇が、とぐろを巻いておとなしく寝ているのです。その蛇の太い胴に私が寄りかかり、冷たい胴をさすっている夢でした。
障害者手帳を貰い、鍼灸マッサージの資格を取ってからの夢は、逃げ回る蛇を、私が追いかける夢に変わったのでした。目を丸くして必死で逃げる蛇を、追いかけるのですが、一度も捕まえたことはありませんでした。
次の詩は、そんな夢を思いながら作ってみました。夢の中の蛇は何かの象徴だと思いますが、この詩では、過去としてみました。
どうぞ読んでください。

〈過去に追いかけられて〉

逃げても逃げても
逃げられず
過去を糊塗するために
次から次へ嘘をつく
嘘で塗りつぶされた
70代のある女性
・・・・
人は皆誰でも
重い十字架を背負って生きている
過去から逃げようとして
目を背けてばかりいると
重たい過去に
尚更振り回される
・・・・
背負いきれない十字架の
重さに負けて嘘をつく
その嘘がまた嘘を呼び
やがては真実を見失い
心は嘘のごみ捨て場と化す
こんな負の連鎖には終わりはない
・・・・
嘘で糊塗した人世に
真実も無ければ
未来も無い
この世に生まれてきた事実と
ひとり死にゆく現実だけは
糊塗することなどできゃしない

※ 糊塗(こと):一時しのぎにごまかすこと。その場を取り繕うこと。

▽ 私は、歳を取ったためなのか?目が見えなくなったためなのか?自分の心を覗き見る習慣がつきました。自身の心を覗いてみると、後悔や羞恥心や反省や興奮やわくわくなどの気持ちが湧きだします。
皆さんも、そっと目を瞑り、自分自身の心を覗いてみてください。意外に楽しいですし、無聊(ぶりょう)を慰めることくらいはできると思います。
今回もお付き合いくださりありがとうございました。
無聊を慰める(ぶりょうをなぐさめる):暇をつぶすこと。気を紛らわすこと。
石田眞人でした